四国にモーグルを・・・
青い南国、四国でのモーグルの歴史と現状を
四国のモーグル伝導師!ウメバラが切る!!



【筆者紹介】
梅原康司 (Yasushi Umebara)
1963  高知県高知市に生まれる
1970  潮江小学校入学 この頃はチビだった
1975  潮江中学校入学 潮中卓球部キャプテン!
1979  高知工業高校入学 空手部に入部するが、3年からは夜遊びにハマり退学の危機に
1982  某化学薬品会社入社 20歳でスキーを始める
1993  スキーにはまり会社をやめ、スポーツ店入社
1995  スキー専門店出店,店長に任命される
1996  第1回四国モーグル大会開催
1997  第2回四国モーグル大会開催
1998  第3回四国モーグル大会開催
1999  第4回四国モーグル大会開催
      膝故障の為靭帯再建手術! モーグル人生ピリオドの危機?
     スポーツ店退職するも路頭に迷わず、専業主夫として我が家に再就職。
      埼玉県のX−techにてPro Shopオープン!プレデターの輸入代理店を開く。
2000  四国の多くのモーグラーの声にCROSS STYLE KOCHIをOPEN !
     CROSS STYLE CUPとして四国モーグル選手権開催!
2002 SAJ公認大会B級選手とし参戦
2008 SAJ B級公認大会初決勝5位
2009 SAJ A級公認大会8位、B級3位
2010 A級選手(SAJ MOランキング 71位)
 


(第一章)

【1】 四国モーグル紀行


「よっしゃー。ついにやったー!」
!
星空に向かって一人、ガッツポーズをしていた。
スキーに思いを抱き、モーグルに狂い、たくさんの仲間とともに南国、四国でモーグル大会をやってみたい・・・ 長い間の思いが今日、現実となったからだ。
平成8年3月10日 愛媛県久万スキーランドでの出来事である。 第1回四国モーグル大会、参加者38名・・・ 四国のモーグルシーンのスタートである。 この後、四国のモーグル熱は、どんどんヒートアップしていくのである・・・


【2】スキーにハマった・・昭和59年頃の私


話は、昭和59年までさかのぼる。当時20才の私は、化学薬品会社に勤めていた。 そこの先輩達にスキーに連れていってもらったのが、私のモーグルバカ人生のきっかけである。



この人は誰??
そう、昭和59年の梅原、その人である。
パンチ気味のパーマにサングラス・・・
まだモーグルを知らなかったが、決してリゾート派ではなかった。
そう、硬派スキーヤーだったのである。

スキー場の中級コースのリフト乗り場で、私は生まれて初めてスキーの板を履いた。
歩いて間もなくリフトに乗せられ、気がつくとそこは中級コース。
先輩曰く「下の平らな所で練習ら〜せんでもええ、ここから、こうやってボーゲンで降りていったらえいき、その方が早ようもうなる」
これが先輩流の教え方である。

なるほど!!
早くうまくなるんだったらそれがいい、と思ったが、甘かった・・
初めての私にとってこの斜面は大変狭く、きつく、なによりも恐かった。
この最初の一本で、私は全身あざだらけになるくらい、とにかく転んだのを覚えている・・・
だが、下の緩斜面にまでたどりつくと、体にすごく余裕を感じ、スイスイターンができたのである!!楽しい!!
最初のインパクトが強すぎたのか、ゆるいところではまったく怖さがなくなり、どんどん楽しくなった。
帰りたくなくなっていた・・・




昭和59年頃のスキーがこれだ!!
宇宙人の侵略でもなければ、ヒマラヤ登山隊でもない・・・
梅原は真ん中(右から4番目)

その次の週からサルのような日々が続き、次の週はなんと日帰りで5日もスキー場に通ったのだ。
B型人間の恐いところで、こうなるともうスキーの虜である。


サルは偉大なのだ。
スキー2年目にして「うぇ〜でるん」をこなす梅原。
当時からスキーへの情熱はワールドクラスなのだ。

私は、この年のうちに四国の狭いスキー場に飽き、関西、そして信州まで足を運ぶようになっていた。
昭和59年当時の四国には高速道路などというものはなく、高知から本州に渡るためには国道を4時間走ってフェリーに乗った。

本州に渡った後、中国、名神、中央高速を経由して白馬へ・・・順調に走って16時間はかかった。
雪が多いときは20時間以上かかることもあり、現在の2倍の時間が必要だった。
しかし、我々にとってその時間はあまり苦痛には感じなかった。 なぜなら、我々にとって白馬のスキーエリアは、とにかく広大であり、たくさんの雪やすばらしいロケーションがあるからだ。

「とにかく白馬!」「ぜったい白馬!」
これが合い言葉になり、私たちは毎年2、3回白馬に通った。
我々とは、師匠安藤氏、もう一人井口氏、そして私・・・四国初‘コブ好き3人衆‘であった。





当時の写真である。
梅原は真ん中である。
20歳梅原の髪型に勢いを感じる・・・


【3】モーグルとの出会い!!

平成元年ごろの出来事である。
いつものように”滑れないコブ好き三人衆”は、八方のリフトに乗っていた。
そのときである・・・ うさぎ平の上からとんでもないスピードでコブを滑って行くスキーヤーが3人の目に入った。
なんと!! その人は自分たちの目の前でジャンプ★をし、さらに加速して、ものすごいスピードで滑り降りていったのである。
「すごい!」
「すごすぎる!!今のはなんなんだ・・と」
初めて見るターン、スピード、そしてデカいエアー!我々3人は度肝をぬかれたのだ。
「早よう! 早よう!」 リフトを降りて、とにかく早くうさぎ平中央付近サイドへ3人は急いだ。
「なんなんだ、今のは?? あんなに早くコブ斜面を滑って行く人をみたことがない。
とにかく近くで見たい」 その一心で待っていた。
やがて、「来た来たぁ〜 ゴクッ!」
またしても、うさぎ平のリフト添いのコブラインを猛烈なスピードで滑って行き、今度もでっかいジャンプを”軽々”と決めていった。
あまりにもすごすぎるシーンに、またまた感動した。
「やっぱり凄い!」
「めちゃくちゃカッコイイ!なんなんやろこのスキーは!?」

それはとにかく衝撃的であった。



平成元年の兔平である
コブを背にポーズをとる梅原。
この写真、ブロッケン現象とは無縁・・・

3人は、宿に帰っても頭のなかに焼き付いてる凄い滑りの話ばかりしていた。
その夜、食事も終わり、いつものように3人でエコーランドをぶらぶらしていると、一軒のおもしろい店が目につき、入ることにした。
なにやらあやしげなポスターや写真・・・そしてテレビで流れている映像!
今日見た凄いコブスキーそのものだった。

「こっコレや!」
店の人に慌てて聞いた。
「これは何というスキーなんですか?」
「今日、うさぎ平で見た凄い滑りの人、ジャンプして3回板をひねっていましたよ!」と・・・。
3人は、見たままのことを店の人に興味深く聞いた。
年配の落ち着いた雰囲気の店員さん曰く、 「今日うさぎにいた人?あ〜その人はね、ん−、彼、去年のワールドカップは三十何位でしたよ」
と。
そして、テレビを指差して、
「このビデオの人が勝つんですよ、ネルソンカーマイケルという選手ですけどね」
「高知からですか。ここに住所書いていただけたら、来年のウェアのカタログおくりますよ」
興味深く、舞い上がっている我々3人の質問に、親切に、静かな口調で答えてくれたのを、今でも覚えている。
一番舞い上がっていたのは、言うまでもなく私だったが、とにかくそのすごいスキーについての情報が一つでも知ることができて、とてもうれしかった。
(これからのスキーはこれや! まさに自分達の求めていたものの全てである)

求めていたものを実践する梅原。
重要文化財「いてまえ〜」の図である。
平成元年当時の高知県民で、こんなエアーをいれていたのは梅原だけであったかも知れない・・・


【4】モーグルやるでぇ!!モーグルの4文字を探す日々

私は、オフシーズンになってもモーグルについての情報を探しに探した。
しかし、当時はモーグルのビデオも売って無ければ、本も無い。(単に手に入りにくかっただけかも知れないが・・・) 当然、モーグルスクールなんてものがある気はしなかった。
なにより、ここは南国、四国。当時"モーグル"という言葉すら存在しなかったのである。
時折、本屋さんで見かけるスキーの雑誌を見ては"モーグル"の情報を探したが、何一つそれらしいものがなかった。
だが、ある日意外なところで"それ"を発見!!それは"サーフィン雑誌"の広告であった。
「こっ!これや!」
「クイックシルバーって読むのか!」
それは、エコーランドの"ナパリ"のレジ後ろの壁に貼っていたポスターと"まさに"同じ写真だったのだ。
当時のワールドカップチャンピオン、たしか"ベルナルト・ブラント"という選手?がクイックシルバーのウエアでミュールキックを決めている写真だった。

そして確か、ナパリにあったポスターには、本人によるオーナーの岡さん宛てのサインが書かれてあった記憶がある。
とにかく私は、この当時のクイックシルバーのウエアに興味を持った。
クィックシルバーの当時のウェアは柄が面白く、デザイナーがフリーハンドで書いたプリントで、ウエアの柄の位置が同じのが2枚とないのが特徴だった。兎平で時々見かける"すごくうまいモーグルスキーヤー"が着ていたウエア。
私達3人はとにかくそれが欲しくて、欲しくてたまらなかった。
私は今でも、その柄のウエア(私達は"フリーハンドの絵"と呼んでいた。たしか、新しく移転されたナパリのフィッティングルームのカーテンは昔と変わっていない絵柄・・・)が気に入っている。
この年の秋、期待したウエアのカタログがナパリより届き、3人はとうとう"元祖モーグルウエア"である"クイックシルバー"を手に入れた。
そして、この年の12月に”四国初”のモーグラー?が誕生したのである...??


四国初のモーグラーの図である。
紫のクィックがまぶしいゼ・・・
この頃から右を向いては「モーグル」、左を向いては「モーグル」の人生・・・


【5】モーグルがわからない???


"クイックシルバー"のウェアをまとってのスキー場。
とにかく、うれしくて、うれしくて、しかたがなかった。
しかし、私達には大問題があった・・・!

それは、いくら天下のモーグルウエア‘クイックシルバー‘を着たとはいえ、モーグルというのは気分だけ。
肝心の滑りは、とても”モーグル”と呼べる滑りではなかったのだ。
この年も、私達には"モーグル的"な滑り方がまったくわからず、いつも悩んでいた・・・
「板を振りゆぅ」 「いやぁ、あまり振らずに、板を真っすぐにして滑ちょった。いや違う!」
「あのコブで板を真っすぐにしたら、とんでもないスピードが出るはず! けんど、今日見た人、板をあまり振らずに滑りよった。間違いない」
「そしたら、どこで減速しゆうがで?」
「それが判らん!けんど、あの溝に板を振って入らんとスピードが出過ぎるぞ!」と。
こんな調子でいつも3人は毎夜議論を交わしていた。

とにかく、今のようにモーグルのビデオや雑誌が無かったのだ。
そして、なによりもモーグルスキーヤー自体があまりゲレンデにいなかったので、私達が"モーグル"を目にすることも少なかったし、
モーグルに関する技術的な情報が、本当に乏しかった。


悩めるモーグラー達・・・
苦悩が表情によく表れている・・・???


【6】四国でモーグルをすることの難しさ・・

平成2〜3年頃・・・ この頃、私は愛媛県の久万スキーランドによく通っていた。
積雪のほとんどが人工雪の為、ゲレンデコンディションは、昼間はいつもベチャ雪、ナイターは硬いアイスバーンが
お決まりの状態である。
斜面は緩斜面が多く、南国だけにウェーデルンをする人が少ないせいか、モーグルに適した奇麗なコブがほとんど無い。
だが私にとって、そこはホームゲレンデ。
シーズンは何度も通い、コブ斜面ばかり滑っていた。
あまりターンせず真っすぐ、そして大きなコブを見つけては飛ぶ、これが"モーグル"らしい滑りと勘違いしながらも、
繰り返しコブを滑った。

「あれはただ真っすぐ行きゆうだけでターンやない」
「あんなんじゃ、一級通らんで−」
端で見ている基礎スキーヤーの厳しい一言が、仲間の滑って行った後に聞こえることもあった。
そんなことは、どうでもいいのだ。
私はただ、"モーグル"をしているつもりであることに"喜び"と"誇り"があり、楽しければそれでいい。
そして、「繰り返していればいつかはうまくなる」と、そう自分では信じていた・・・ 。

目標があった。
それは、このころ久万スキーランドでよく見かける一人のスキーヤーに、私はすごく興味があったからだ。
見た目の年齢は四十才後半だが、ターンはすごくしなやかで、かつ力強く安定感があった。 彼はいつもコブ斜面ばかり滑っていた。
時よりエアーをする余裕すらあった・・・ そのウェーデルンは悪雪や不規則なコブをもろともせず、どんなときも一定のスタイルで滑
れるターンの奥深さがあった。
基礎スキーでもなく、モーグルでもない、そのスタイルには不思議な魅力が感じられた。
あまりのコブのうまさに私と井口氏は、その御方を‘ミスター久万‘と呼ぶようになっていた。
当然、ホームグラウンドである久万スキーランド
に ちなんだ名である。


【7】オリンピックの影響!?

 話は変わって、‘89年のフリースタイル世界選手権を偶然テレビで見て以来、なにをかくそう私は、
エドガーグロスピロンの熱狂的なファンになってしまった。
それはまだ十代の、やんちゃなエドガーが、デュアルレースで豪快なエアーとパワフルかつハイスピ
ードなターンでベテランを次々と倒していき優勝するシーンで、これぞナノ・ポーチェ流フランスモーグル
と言える激しい滑りが印象的だった。
そして、‘92年モーグルが正式種目となった、アルベールビルオリンピック。 第三位はヘリコプターを
決めた全米チャンピオン、ネルソンカーマイケル、第二位はたての吸収が非常に大きいフランスのオリ
ビエアラマン。そして、この時もやはり凄かったのは、“エドガー様“だった。
自国開催での金メダルへの期待されているプレッシャーをもろともせず、ほとんどノーミスな完璧な滑り
で他を圧倒!金メダルに輝いたのだった。 ゴールライン直後に即急停止し、集まった大観衆にガッツポ
ーズで圧勝をアピール!まさにモーグルの帝王と呼ぶのにふさわしいシーンに本当に私は感動した。

そんな影響の為か、その後ここ南国四国でも同じ志を持っていると思われるスキーヤーを時々見かけるようになった。
現在でもそうだと思うが、ゲレンデでモーグルスキーヤーっぽい人っていうのは、何故かすぐ分かる。
ハデなウェアに短いストック、どこでもかんでもショートターン。
当時では、ゲレンデのどっかでよく見かけるぐらい急増したスタイルだ。
ある日、石鎚スキー場でそれっぽい奴を発見した。
モーグラーらしい、クイックシルバーのウェアに身をつつみ、どこでもかんでもチョコチョコターン。
ちっちゃなコブでもかまわずエアーする様は、まさしく‘なんちゃってモーグラー‘の証しなのだ。
四国で、私達以外に‘それっぽい‘人を珍しく発見したのである

興味があった私は、密かに近かづき、さりげなくリフトで並んだ。
仲間を増やす布教活動?の得意な私は、なにげないふりをしてその人に話しかけたのである。
私:「スキーうまいっすねー、モーグルやっているのですか?」
その人:「ああ」
私:「大会とか出ているのですか?」
その人:「んーまあ・・・」
私:「どちらから、こられているのですか?」
その人:「香川・・・」
その他リフトに並んでいる間、私はいろいろその人に問いかけた。

私はいつも、モーグルスキーをしている人は、同じ穴のムジナ的な仲間意識がお互いにあり す
ごくフレンドリーな人種だと思っていた。
少なくとも、その時の私はそう思って話しかけたに違いない。
しかしその人は、期待とまったく違った感じの方で、表情一つ変えず、小言でボソボソという感じで私の問いかけに答えていた。
その人には大変失礼だと思ったが、私はその時思ったのは、「あまりフレンドリーではない 少しプライドの高い感じのする人」、「無愛想なヤツ」と
そんな彼に翌週偶然、久万スキーランドのナイターで発見したのである。
人を第一印象でイメージしてしまう私は、あまり気分は乗らなかったが何故かリフト乗り場で追いつき話をした。
私:「あの、この間石鎚スキー場で、会いましたよねー。」
その人:「あー。」
私:「何人で来られいるのですか。」
その人:「一人...」
「よかったら、いっしょに滑りましょうか」
の私の問いかけに、その人は一言「別にエエよ..」
あまり会話のないまま、何故か何時間も2人でコブを滑っていたのが不思議であった... 。

愛媛県にもそんなモーグルの虜になった人が他にもいた。
久万スキーランドで、その方に初めてお会いして「モーグルやっとるんですか?」と彼から話し掛けられ、
知り合いとなり、よくいっしょにコブ滑るようになった。
「わしは、新居浜でラーメン屋やっとる村上言うもんやけど、最近久万によう来る奴で、ごっつうターンの速い人おるやろー。
「わしその人と来週ここ久万で会う約束しとるんよー」と。
「ほんで モーグルターンというものを教えてもらうつもりや。」
ラーメン屋のマスターはかなり力の入った口調でうれしそうに話していた。

そして、2人の約束の日に私も久万に行った。
マスターいわく「梅原さん、もうそろそろその人来る頃やと思うんやけど・・・」
そうしているうちに、その人が滑って来た。
なんと!!その人とは‘無愛想‘な杉田君であった。
こうして、四国の中にうっすらとモーグルを志すもの同士のブレーンが出来始め、それをきっかけに久万に集まる、モーグルの好きな仲間が高知、
愛媛を中心に徐々に増えていくのであった。
ちょうどこの頃、化学薬品工場で働くことに不満をもっていた私は、本業の三交代勤務のかたわら、密かにスキーショップのチューンナップなどのアルバイトをするようになっていた
それは大変興味のある仕事だったので、どんどん自分がのめり込み、夢中になり、楽しくてしょうがないのである。
そしていつのまにか、いろんなショップでワンシーズンアルバイトに励み、シーズンが終わる頃、それがきっかけになり現在勤めているショップより就職の話があった為、おもいきって転職を決意した。



【8】出会い

オーナーの計らいで、何故かいきなりスキー担当になったのまでは良かったのだが、化学工場の作業員からいきなり「いらっしゃいませ」である。
良く考えると、ただスキーが好きなだけの‘スキーバカ‘である自分が接客など、すぐに出来る訳が無い。
当然しばらくの間は四苦八苦した。
そして仕事に必要ないろいろな勉強を余儀なくされた私は、スキーやブーツ展示会や、チューンナップショップでの見習、接客に関する講習など、
スキーに関するいろいろな所に顔を出し全国を出張で飛び回ることになった。

東京ですごく有名なチューンナップショップや大型店での見習いや、各地の専門店での視察など時間の許すかぎり、いろんな所を見てまわった。
スキー業界も現在の低迷時代とは違い、新商品の発表となると、華々しく盛大におこなうメーカーが多かったのだ。
商品説明だけではなく、その製品を使用している選手やゲストなどを呼び、そのメーカーの商品の実際に使用しての体験や長所などを講習会などで
宣伝するのです。

そのある日の講習会でのことである。
そこで偶然!
自分にとって、いや、今後の四国モーグル文化の発展にとってもとても重要な方にめぐり合うことが出来たのです。

それはあるスキーメーカーが主催する講習会でのこと。
以前から偶然にして手に入った数少ないモーグル雑誌やビデオに出ている有名な方が講師として会場に来るという。
「コブ道免許皆伝!」の著者である角皆優人さん。
元全日本フリースタイルスキーナショナルチームヘッドコーチの経験のある方です。
講話の内容は、今でもはっきりと覚えているが、このメーカーのスキーを使用するようになったきっかけのエピソードや、岩渕君がワールドカップで
日本人で初めて表彰台に上がった感動の様子など、私の興味あるモーグルの話ばかりだった。
というのも、角皆さんの本を隅々まで何度も読み返している私にとっては、講話の内容がその本に書かれていた内容を更に詳しく、そして臨場感
豊かに伝えるものだったからである
私はとにかく、おもしろくて感動した。
それは、いちスキーメーカーの小売店を相手とした講習会の内容とは少し違った感じで、 本来ならスキーの性能や良さを懸命につたえるべく場だ
と思うが、その時の内容は商品のことよりも、今までいろいろな経験してきたことや、スキー業界内の組織やそのありかたについて、何かを訴える
ような内容のように思えた。
他には、このメーカーのスキーを使っている、ベルントクレーバーや金子デモの話などもあり、
会場のほとんど一般の方々は、こちらの話の方に興味があったに違いない。
そしているうちに会も終わり、閉会時のこと。
このチャンスは無いと思い、小心者の私だが、勇気を出して角皆さんと話をしたいと思ったの
である。
とにかくモーグルのことが知りたい。 技術的なことや、クラブやスクールのことなど聞きたい
ことは沢山ある。
そして、なによりも、角皆さんの本を読んで、共感できるものが私の中にあったからだ。

「あのー、はじめまして・・」
「僕四国でモーグルをやっています梅原というものです。」
「えとー、」と何から話していいのか、戸惑っている私に、「よろしければ、あちらでゆっくりお話を
聞きましょうか」と角皆さんが気遣ってくれた。
とにかく著名人と話しする機会のない私は、この時かなり舞い上がった様子だったに違いない。
モーグルを広めるには、チームを作るには、コースのことなど・・沢山相談に乗っていただいた。

この時をきっかけに、角皆さんにはいろいろとアドバイスを頂き、私の中のモーグルに対しての道が、 この時飛躍的に切り開かれた。


【9】四国初のモーグルチーム発足!

徳島を除く、香川の杉田、愛媛の村上さん(マスター)を中心として、四国レベルでモーグル仲間が少しずつ久万に集まるようになり、久万スキーランドの土曜ナイターなどにはいいコブが出来、盛り上がるセッションになることがあった。
白馬などで見る凄くモーグルのうまい集団。
そんな雰囲気にいつもあこがれていた私は、今に四国でもモーグルチームを結成し、コブ斜面を集団で飛んだり、跳ねたりする場面を創造し、いつも心に抱いていた
一人より大勢でコブを滑ると楽しいに決まっている。
目立ちたいと言う意味では、バイク乗りが暴走族を作りたがるのと、何ら変わりの無いことかもしれないが・・・ そんな思いでいたある日、店にお得意さんの一人である五藤さんがやって来た。

五藤さんは少々ご年配だが、モーグルがうまいのと若くきれいな嫁さんを連れているので、ちまたではおじさんモーグラーとしては有名なのだ。
「梅ちゃん!久万で、あれだけモーグルする奴がおるがやったら、そろそろモーグルチーム作れるがやないかえー」。
私もすかさず、「そう!そうながよ!そろそろメンツも揃うて来たき、いっかいみんなーにモーグルクラブ作ってみんかえーって、言うてまわってみろうかー」
五藤さんの呼びかけに、「待ってました!」と言わんばかりに、相づちを打つように賛成した。

そして、H6年11月、四国というエリアでモーグルに興味あるものが、初めて一度に集まり クラブ発足と、その主旨を皆に伝えた。
「クラブ名 Free Bumps TEN」 「クラブ特別顧問として角皆優人氏を迎える」 「四国に在住していること」 「純粋にモーグルスキーが好きで、仲間と楽しく情報交流し、競技思考も高め合う」 簡単な規約だが、要は「みんなで一緒にモーグルを楽しみましょう」というのが、主な主旨である。
集まった23人全員の一致により、ここに四国で最初のモーグルチーム「Free Bumps TEN」が誕生したのである。 クラブ発足にあたって、どんな活動をしていくかが話し合われた。
「チームウエア、もしくはワッペンなど何かチーム員らしいものを作る」 「合同練習、大会参戦、」 などなど、いろいろな意見が出たが、やはりまずはホームゲレンデと常設バーンがなによりも一番ほしいという意見が多かった。

とにかく「エアー練習が出来るところ」、「いつもコブがあるところ」これがあると、無いのでは、 今後の四国のモーグルレベルアップに、大きく左右するのだ。
この頃、全国的にもモーグル専用コースなるものが、徐々に増え初めてきている頃で、その辺の事情と我々のクラブの活動としての思いを久万スキーランドにお願いすることにした。

簡単なクラブの目的や内容を明記したものを用意して、私と村上支部長を率いる数名でお願いにあがった。
予想通りであったが、簡単にお断りをされたのである。 それはそのはず、南国四国の営業期間も短い小さなスキー場で、しかも休日ともなれば2千人を超える来客者がある場所で、コースの一部を我々だけにという無理なお願いなのだ。
ましてや、スノーボーダーがエアー台を勝手に作ることに反対している矢先に、我々だけにという問題もある。
「あなた達にエアー台の作成許可だしたら、他のお客さんから言われても断れなくなる。」
「もしも怪我人が出たらどうするつもり」「他のスノーボードのお客さんが勝手に飛ぶのをどうやって防ぐ」「管理は誰が」などの、沢山の問題点を指摘され反対された。
やはり安全面やトラブルのことを考えると、スキー場側からすれば当然の見解である。
しかし我々TENとしては、エアーなどの練習の出来る場所が、どうしても必要なのだ。
ここまできたら、「我々はモーグルというスキーを競技として真剣にやりたいのだ」というのを分かってもらうしかないのだ。
ここで許可が出ると、出ないとではこれからの四国のモーグルスキーヤーのレベルアップに大きく左右するに違いない。
みんなで、皆で考えた結果、一枚の嘆願書たる我々の目的や、はっきりとした意思を伝えるものを 作成しもう一度、真剣にお願いにあがることにした。
「真剣に競技として活動している」
「必ず誰かが付いて管理する」
「我々の事故については一切自分たちで処理する」
「他のお客さんには紳士的に対応する」
「作成時パトロールに連絡する」
「当然終了時には撤去する」など、他のもいろいろな事項を明記し真剣にお願いした。
そうすると、願いが通じたのか「一度試しに作ってみて影響を見てみよう」とかなり前向きな返事を久万スキーランドの田村支配人よりいただいた。
さっそくコースサイドをネットで仕切り、エアー台を作り飛んで見せた。 約束を必ず守るという条件と、思ったよりも狭いゾーンで練習できることがわかり、意外とすぐにOKが出たのだ。 そして土曜日がくるたびに、メンバーが集まれば専用コースを作り練習することが出来た。
私個人としては、もちろん自分たちが真剣に練習出来る環境がほしいこともあったが、なによりも モーグルという新しいスポーツを、四国の他のスキーヤーに知ってもらうことも意味があると思うのだ。 そして、それを見て興味あるものが、門をたたいて来ることにより仲間が増え、より面白くなって行く気がしていた。
もちろんやり方を間違えれば危険なスポーツでもあるが、しかしその反面、モーグルスキーの楽しさやスリルなど、体験した者でしか味わえない興奮があるからこそ、どんどんはまっていく。 そんなスキー自体の遊びやおもしろさを、皆に知ってもらいたいと思っていた。

話は戻りますが、この専用練習許可につきまして、 田村支配人ほか久万スキーランドさんに大変感謝したいと 思います。


【10】第一回 四国モーグル大会開催!

平成8年、全国各地のスキー場でもモーグル専用バーンの設置や草大会の開催も増えそこで見かけるモーグルスキーヤーのレベルもかなり高くなった。
自分自身も何度か草大会などに挑戦してみるが、意外と本番であがってしまいいいかげんへたくそなスキーが、よりへたさを増してうまく滑れなかった。
何でもそうだが、「慣れ」は不思議と、気のあがりを感じさせなくなるものである。
そんな思いのもとに、モーグル初心者が簡単に出場しやすく、モーグル大会の登竜門的な大会をどうしても四国で開催したかった。
おそらく開催しても、参加者は数十名だろうと思ったのだが、とにかくこの南国四国で草モーグル大会開催は初めてだし、一般の人にもモーグルを知ってもらう意味はあるはずだ。
そしてなにより斜度も比較的緩く、距離も短い久万スキーランドは、、そういった四国のレベルには絶好の大会バーンであるのだ。
そんな思いの中、半信半疑で田村支配人に相談したところ、以外にもかなり前向きで話を聞いていただき、実現可能ということがわかった。
そうなると一気に気分が盛り上がり、早速準備にとりかかる。
四国の参加者がほとんど大会初参加ということから、今回は参加資格を四国在住者に限定し、レベル差を少なくして、とにかく誰でも出場しやすい大会になるよう、当初の目的通りに開催にすることにした。 運営にいったい何が必要で、スタッフは何人ぐらいいるのかなど基本的なことがまったく分からない私は、角皆さんに相談。
そして大会に必用な集計用のコンピューター、ジャッジ、DJ,音響設備、コース設定、スタッフなど、 草大会レベルを開催するにあたって必要な事項をアドバイスいただいた。
自分としても、とにかく少ないスタッフで小規模でも開催したい。 そんな思いがTENのみんなに通じたのか、次々とスタッフとして動いてくれる者が名乗りを上げ 問題が徐々に解決していった。
前日もチーム員に手伝ってもらいコース作りなど最後のいろんなセッティングに夜中までかかりほとんどの TENのメンバーは睡眠不足で当日を迎えた。

参加者38名、これが四国発のモーグルスキーヤー達である。 会場の久万スキーランドの皿が峰コースは前日よりの寒波で気温はマイナス3度、斜面は硬く締まり、 アイスバーン状態となっていた。
130mの緩斜面にエアー台一つのやさしい設定ではあったが、以外にもある程度以上のスキー技術を要求され 、インスペクションでも完走するものすら少ないハードな状態になっていたのだ。
とにかく南国四国で行なわれる前代未聞のモーグル大会。
見たことも無い人もいれば、モーグルという言葉すら聞いたことの無い人がほとんどの土壌なのである。
まわりの一般ギャラリー達にはいったい今から何が始まるのかって思ったに違いない。
そんな異様な雰囲気の中、第一回四国モーグル大会は開会となった。

開会式はゲスト関係者によるデモ滑走がオープニングなのである。
まずは主催側の私からスタート。 少し上がりながらもなんとか無事完走。 意外と皆の見ている前でのデモ滑走は気持ちのいいものである。
そして、今回ジャッジ等でゲストとしてお招きしている角皆優人氏と近藤信インストラクターのデモ滑走である。
いきなりの近藤隊長のヘリコプターと滑らかなターンに会場から大きな歓声が上がった。 デモ滑走最後はミスターフリースタイラーこと角皆優人氏である。
「スリー、ツー、ワン、ゴー!」いったい角皆さんがどんな滑りをするのか、四国の選手やギャラリーは静まり 息をのんだ。
私は事前に角皆さんは、こういったイベントでのデモ滑走時にはよほどエアー台の状態が悪くない限り、 必ずバックフリップを見せてくれると近藤隊長から聞かされていたので何をするかは分かっていたが、 生をこの目で見るのは初めてだったので・・・ 予想通りのすばらしいバックフリップをじかに初めて見る私達は、大声で歓声を上げるぐらいに感動した。
多分四国のスキー場でスキーを履いて縦に回ったのは角皆氏が始めてだろう。
その証拠に会場はしばらくどよめきに包まれていた。
開会式では角皆氏より、初めてのモーグル競技参加者に激励の言葉が送られた。

見よう見真似の慣れない私のDJに乗って、いよいよ女子予選のスタートである。

「アーユーレディー!」「スリー、ツー、ワン、ゴオー!」
女子は5名全
員が大会未経験者で緊張しているものも多く、硬いアイスバーンに苦戦をしいられていたが全員予選完走。
引き続いて男子予選が始まり、このころには天気もますます悪くなり気温もかなり低く感じた。
男子もモーグル大会に始めて参加するものが多く、緊張を余儀なくされほとんどのものが苦戦をしていた。

そして無事予選が終了、午後からは決勝である。
気温もだんだんと低くなり、コブは少しずつ難しさを増していた。
女子は予想通りダントツで五藤奥さんが初代チャンピオン。 男子は予選トップ香川の杉田、そして高知の西森、その他にも控える優勝候補が予定どおりに決勝に進みすばらしい滑りを披露、それぞれ実力を出しきった滑りにギャラリーは惜しみない拍手を送った。
しかし、男子の部は優勝したのは予想されていた彼らではなかったのである。
この人の滑りだけには、私の中には奥深いものがあり、ひそかに応援をしていた人である。
二メートル近い長さの板で巨大なダーフィーを飛び、しなやかなターンとハイスピードでコースを駆け抜け、ゴールエリアでは恥ずかしそうな表情で笑っていた。

もはや巨匠と呼べる、‘ミスター久万‘こと窪田昭吾さん52才の優勝である。

私がモーグルらしきものを知った頃から、ここ久万スキーランドをホームグラウンドとして滑り、私達ファンを魅了したターンが勝ったのである。
聞いた話だが昔若い頃、美川スキー場のAコース(最大約32度)をギブスをしたまま片足で滑っていことや、八方のウサギ平のコブに惚れ込み、何ヶ月も白馬に居座った話など、フリースタイルスキーヤーとしてほんとうに楽しいスキーをしてきた結果がもたらしたことだろう。
エアーの練習もほとんどせず、大会初参加での出来事である。 多くを語らず、いつも楽しいスキーをしている窪田さんを見て、自分もこんな年の取り方をしたいと強く思うのである。





【11】四国にモーグルブームの到来!

四国初のモーグル大会開催で四国のモーグルシーンが一気に開花し、モーグルブームが加速した時期だ。
それはゲレンデで一つのムーブメントのようにモーグルスキーヤーの存在が目立つようになり、コブを滑るスキーヤーが、コブを攻める‘モーグラー‘という存在に憧れのような意識を抱いてたようにも思える。
当時、自然コブが成長する週末のナイターになると、フリーバンプスTENのメンバーが20〜30人毎週のように集合、上部に集合してはセッションを繰り返し、時には一斉に塊でコブを一気に滑り降りることが楽しみの一つだった。
その様子をリフト上から見た光景は、今思い出しても圧巻であったことを記憶する。
自然コブならではの光景、みんなでコブを一斉に滑るのは、ほんと楽しいセッションでした。
中でも目立ったのは、地元の高校生モーグラー。
古い板と汚れ壊れかけのブーツ、ウエアは家族で兼用、一見ヤンキー風に髪はリーゼントで眉を小さく剃った古鎌星児は父親や兄弟でナイターに毎週よく現れた。
小さい頃から家族でスキーをたしなんだ技術は、コブを滑らせても天下一品。
不規則な自然コブにもかかわらず、ターンはどこでもクイックの入る素晴らしい切れとアグレッシグさが我々をうならせた。

どんどん仲間が増殖。
現在のTEN愛媛支部長 和田亮二や香川支部長 野口英司、徳島には竹内郁夫など主要なTEN支部リーダー達もこの頃知り合った。
ある日の久万でコブをタテに大暴走する高校生に出会い、コブターンのアドバイスした。
正直その時はまだスキーは上手くなかった彼であったがTENに入会してどんどん上達してゆき、翌年、彼を角皆氏に紹介しスクールのスタッフとして使って頂くとこになり白馬に篭る。
隊長こと近藤マコト君の指導のもと、後2年度には飛躍的に活躍!
ニュージーランドのワナカビッグエアーにて優勝は日本人初の快挙!
この世界では日本を代表する選手に登りつめた‘門田雄貴‘もTENの仲間である。

この盛り上がりを作ったきっかけは、世間のモーグルブームの影響もあったが、やはり四国初のモーグル大会開催、そして翌年から恒例化したことであろう。
THE MOGUL‘97の「モーグルバカ列伝」コーナーに見事、私が取り上げられ南国四国でのモーグルブーム?は全国的にもネタとなっていた。
ちなみに隣のページには、尊敬する全日本選手権常連、新潟県の歯科医である服部さんが掲載されていた。

第2回大会から四国以外の地域から参加者が増え始めたのが判る。

‘97第2回四国モーグル選手権 久万大会参加者  64名 
男子優勝:杉田義明  女子優勝:大林美保
‘98第3回四国モーグル選手権 久万大会参加者 98名
男子優勝:西谷直博  女子優勝:大林博子
‘99第4回四国モーグル選手権 久万大会参加者 142名
男子優勝:井上哲也  女子優勝:大林博子(二連覇)

年々大会の参加者が増える。まさにモーグルブームの到来である!
中国地方、関西、関東、九州などあらゆる場所から‘盛り上がる大会‘を目指し四国に人が集まってきたのだ。

この頃、世界では人工コブという規則正しくコブが並ぶモーグルコースが増え始め、より正確なターンとエアーが求められるようになりジャッジも変わり始めた。
国内の草大会も人工的にコブを作る動きが急増、規則正しいコブの楽しさに誘惑され、四国の大会コース作りも人工コブ作成に試行錯誤の毎日でした。
「どうやって作る?」
「手で作るがぁ?」チーム員みんなが注目した。

そしていろいろ考えたあげく、ピステン(雪上車)でうねりのような山を作り、それを元にコブを作ることにしました。
もちろん作成はナイター営業の終わった0:00以降、ピステンのオペレーターの方と打ち合わせ、試行錯誤しながら人工コブの基になる形を作り出すことにした。
作成当初は出来上がったコブが下から見て曲がってたりでもしたら、とても機嫌が悪かった私だったが、一度ピステンの助手席に乗り早朝まで同乗すると考えも変わった。
何時間もかけて作る「山」の連続に、この作業への苦労と感謝、そしてすばらしい運転技術にうならずにはいられなかった。
フラットに均す作業、かたや何倍もの時間と労力を掛けて作ってくれてる人工コブ。
尽力を頂いた久万スキーランドさんと運転手さんに感謝をすると共に、今考えるとこれらの労力は後に、四国モーグルの技術向上や人口増加にも大きく貢献したことでしょう。
ありがとうございました。
そのお陰もあって、当時のモーグル雑誌には「全国モーグルバーン」にしっかりと四国久万スキーランドが掲載され、時には雑誌やテレビの取材も入るようになっていた。

大会を盛り上げるのは初回から角皆さん率いるF−STYLE SCHOOLのスタッフや素晴らしいゲストを招き、モーグルスクールも開催していた。
回を重ねてゆき、時には元ワールドカップ選手の本間篤史さんやアメリカからプレデターの現役選手アダムまでゲストに招き盛り上がりました。

参加選手は相変わらず中国や関西、遠くは関東からも集り、一時は140名を越える巨大な草大会になっていったのだ。



【12】一気に成長する世界のモーグル事情!

少しさかのぼりますが、前頭にも書いた通り世界では‘92年にフランス アルベールビルオリンピックでモーグルが正式種目になりました。

そして2年後、
目が覚めるような綺麗な人工コブバーンのオリンピック!
‘94年カナダ リレハンメル大会は地元ジャンリュックブラサール金メダル!
機械的なタテの膝の動きは、この頃モーグルスキーヤーの技術の見本となった。
2位はロシアのセルゲイ、3位フランス、エドガーグロスピロン。
翌年、モーグル界をうねらせたワールドカップ6戦優勝!のグランドチャンピオン‘セルゲイ‘が突然の交通事故により他界。
‘96年 坂本豪大がモーグルワールドカップ初出場で初優勝に日本のモーグル界が沸く!
この頃、里谷多英は若干20歳、愛子は16歳。
世間でもモーグルは公認大会より草大会が各地で大盛り上がり!
大会数は全国で200を超えるほどにモーグルブームは成長していた。
ブランドも現在では見ないオーリン、クナイスル、ケスレー、トランソニックなどのモーグルスキー、そしてウエアはフェイト、DV8,BFA、などのブランドが後に私が輸入することになった‘プレデター‘は大変レアな存在だったと思う。
いやぁ・・この頃のウエアは本当にカッコよかったなぁ。



【13】‘98年、長野に冬季オリンピックがやって来る!


大いにモーグルが盛り上がる時代が到来したのだ。
長野で冬季オリンピックが開催される!

当時のモーグル雑誌‘ブラボースキー‘に掲載される金メダル予想が気になる。
男子はニューエアで世間をあっと驚かすエアー革命児‘ジョニーモズリー‘が最有力!と。
女子はアメリカのベテラン ドナ・ワインブレヒトやドイツのタチアナ・ミッターマイヤー、そしてフランスのキャンディス、カリーと並ぶ。
ちなみに日本の里谷はもちろんこの時点ではノーマーク。
各スキー雑誌も一斉に長野オリンピック一色になってた。

そんな盛り上がるシーズンの1月、私に‘チャンス‘は突然やってきた。
悪友‘オスギ‘こと香川の杉田から「今度の長野オリンピック観に行くんやけど、友達が行けんなってチケットが一枚余ってるんよ」と。

「・・・なに!ほんまか杉田ぁ!」
いや、「杉田様ほんとですか?」

抽選の抽選、かなり手に入り難いモーグル競技会場、飯綱高原スキー場のチケット。
しかも決勝日なのである。
「しょーがないなぁ・・行ってやるか」
当然即GO!です。
時には悪友も役に立つモンです(笑)。

大会当日、
会場に着くと異様な雰囲気のモーグルバーン!
さすがにオリンピック会場は違いました。
しかも決勝日、杉田とセカンドエアー付近で観戦することにし、ビデオをセットしたころ公式トレーニングが始まった。
1本目から見たことのないスピード!
やはり世界のトップ選手の滑りはまったく違った!

早すぎ!!

デカすぎるエアー!!
世界レベルの滑りを間近に見て驚きの連続です。

そんな公式トレーニング中での出来事。
前回リレハンメル大会優勝のジャンリュックブラサールは飯綱のショートピッチ気味の深いコブにタイミングが間に合ってないのか、何度もバランスを崩しミドルでコースを外してたように見えた。
がしかし、
同国のステファンローションと二人でコースサイドの中間位置で並んだ時のことである。
2エア手前から声掛け合って同時にスタート!トリプルエアーの合戦には大観衆7000人から大喝采!!素晴らしいエアーパフォーマンスでした。
仮にもオリンピックの公トレ中。
ギャラリーに対しショータイムを披露するとは、さすがは世界のトップ選手は違うなぁ・・と感心した。
これぞフリースタイルスキーの真髄!

さてさて、
そんな彼達とはまったく違う雰囲気で、もくもくと練習してたジョニーモズリーは、全ての公トレ滑走を上から下まで止らずフルアタックな滑り。
しかも第2エアは特大のグラブヘリの度に、会場の大観衆が「うぉー!!!」とどよめく。
ほんとに綺麗でカンペキなグラブヘリを初めて見て感動したのを覚えている。

このオリンピックは何故か男子が先に滑走。
そして本番、はやりニューエアー‘グラブヘリ‘がジャッジの焦点に。
アピール度と話題性なのか、予選一位のジョニーモズリーが予定通りのノーミスのすばらしい滑りで金メダル獲得!
次に来るであろう新しい世代交代を匂わすかのように、徐々に活躍をアピールし始めてたフィンランド勢、ヤンネ・ラハテラがここで銀メダル、銅はサミームストネン!
ほんと全員がカッコよかった!!

女子決勝が始まった。
13位通過の高校生 上村愛子は結果7位の大快挙!
すばらしい快走だった。
そして、11位通過の里谷多英の番である。
会場は当然ながら自国の選手なので大声援であるが、私も予想は優勝に絡むとは夢にも思ってはいなかった。
スタートして1エア後、そこから一気にスピードアップした凄いターンに何かが起きる!私はそんな気がした!
深いコブに綺麗に板が張り付いて、しかもとんでもなく早いのだ!
そのままのスピードで我々の目前にあるセカンドエアーで特大コザック!
大観衆が一気にドワーン!と盛り上がった。
ゴール後、彼女の目の覚めるような滑りに会場全体が更に大盛り上がり!
ざわめく会場に25.06とポイントが発表された瞬間。
不思議などよめきが起きた・・「なんだ!この点数は?」
予想外!いやとんでもない凄い滑りに対してのハイスコア!
誰もがそう思ったに違いない。

そして、そこから後の選手、誰もがこの点数を越えられなかったのだった。
最後の選手のスコアが発表された瞬間!
日本人初!モーグルスキー金メダリストの誕生に会場大興奮!!
まさに劇的な瞬間である。
怪我で出場できなかった坂本豪大と原大虎らに抱えられた多英ちゃんは号泣してた。
大観衆は「タッエ、タッエ、タッエ!」コールがいつまでも鳴り止まず、私も杉田も
大声で叫び喜んだ。

後に本で読み知りましたが、この会場に森徹君も来て応援してたと・・
一目お会いしたかったです。
しかし、凄いドラマをライブで見れた幸せ・・・・
杉田よ!
いや杉田様!ありがとうございました。
生涯忘れることのないすばらしい感動をありがとう!



【14】モーグル人生の危機かそれとも転機か?

1999年2月いつものハチ北にスキー行ってた時のこと。
ついに・・
私自身に事故が起きてしまった。

現在のモーグルトレーニングコース、緩い緩斜面で、いつものTENやタートルズメンバーで楽しくコブを楽しんでいた。
午後、疲労感はあったがどうしてもダブル技のエアーを完成させたかった。

疲れを忘れ、夢中になりすぎてかセカンドエアーのランディングでバランスを崩した体勢のまま、踏ん張り耐えたときに膝の中で「ゴキっ!」という音と膝がズレのような体感があった。
以前から右膝には痛みが出ていて不安はあったが今回は少し違う。
練習を止め、そのままゆっくり滑って下山、経験したことの無い膝の違和感に、心の中で「大丈夫なはずだ・・」と願った。

宿に帰りアイシング、そのあと車で帰る途中に腫れがひどくなったのか、膝が動かなくなり歩行が困難に。
後日、田中整形にて診断結果、前十字靭帯がほぼ断裂状態にあり半月板も割れていると。
私のモーグル人生で最悪の事態である。
内視鏡手術にて半月板の亀裂がひどい為に内側を切除。
その年の3月29日前十字靭帯再建手術。
噂には聞いていたが、まさかの自分が膝の靭帯手術をするとは・・
とにかく痛く辛い思いをした。

術後、目が覚めると夕方で体中に管がいっぱい差し込まれてて動けない。
その夜、激痛が止らずナースコールを何度も押したのを覚えている。
日記には、2日後から機械によるリハビリ開始20度〜60度程度ゆっくり動かす。
1週間後に抜糸、装具に変わりリハビリの毎日・・と。
いつもと違う病室内の生活と痛む膝、そして今日もリハビリの毎日。
今、考えると情けない話だが、ベットで何度も「モーグルなんぞはもう辞めてしまおう」と正直真剣に思ったことがあった。
それは同時に現在の店長の仕事も解任され、自分のスキー人生にピリオドを打ち、他に何か違うことに打ち込む仕事をしようかとも思った。
毎日、毎日リハビリしながら、今後の自分の人生のことを真剣に考えた。

昔から小心物で臆病?
しかし、苦境になるほど反骨心が湧き燃え上がってくる性格が、この時も不思議と「これからどうしよう・・」という不安より、
「ついにこの時がキタ!」という何かチャンスのようなものを感じていた。
(おバカはきっと状況が判らないのだろう・・)
もちろん家族はこの状況を不安に感じたに違いない。
すまない・・

夜になると病室で親友と昔話をしながら将来について毎日話をした・・
私について、その私に今後なにが出来そうかと・・
いろんな仕事の話があることを彼に打ち明け相談、それを話しているうちに、ある仕事の話に対し興味深く意見をくれた。
その日から毎日、毎日リハビリの合い間に計画を練って実行に移すことに。
大会をサポートしてくれてた大事な友人も遠くから見舞いに来ては、私のことを心配してくれ、いろいろと助けていただいた。
家族や友人に助けられたことを思い出す。
みんなありがとう・・今でも感謝する。

日記から・・
膝の経過は術後4週後、体重の3分の1のウェイトをかける。
痛みと加齢のせいか、他の人より少し遅い術後経過にイラ立つ・・
8週で杖を外し歩くが、皿の下の激痛が治まらず歩くのもやっとの状態・・と。

そんなまだヨチヨチ歩き状態で新しい仕事に向け出発した。
以前より仕事の話があった埼玉県東松山市に出向く。
以前よりお世話になってるF−styleの角皆氏からの提案で、トレーニング施設内でショップ展開、そしてスキーウエアの輸入業と、とても新鮮で興味の引く内容の話なのでである。
やる気満々の私は即、決行!

屋号を‘CROSS STYLE‘として動き始めた。



【15】CROSS STYLE 東松山店の誕生

マシントレーニング、スケボーやインランスケートの巨大ランページに大型トランポリンを有する施設はこの当時、恐らく日本初だろう。
私はその一角のテナントでスキーショップの展開、スキーウエアの輸入、卸などを行なうのである。
見たことも聞いたこともない初めての土地で何が出来るのだろう・・
どうすれば・・と毎日、毎日、スタッフと悩んだ。
宿泊の経費も抑える為に、暑く寂しい施設の裏部屋で寝泊りしながら考えた。
単身赴任で自由なはずだが何故か気分はいつも寂しく、リハビリ中の膝が毎日痛み、更に気分は沈んでいた。

「ああ・・家族に会いたい」

施設のオーナー達と従業員とで埼玉県中を廻りビラの配布や宣伝に出かける日々が続いた。
同時に素晴らしい施設を前に何もすることもなく、膝のリハビリに専念して寝る毎日。
オープンしてから思い通りに集客のない施設にスキーショップも売上は少なく不安だらけの日々がしばらく続いた。

そんなある日から突然毎日電話が入り始めたのだ。
それは四国から、
以前からのお客様やTENのメンバーからの注文の電話である。
「板が欲しいがやけんど・・ブーツはどこで買うたらえいが?」
ありがたかった・・ほんと今でもこの時のことは忘れない。

大都会の隣、ショップは池袋から電車で約50分の東松山市の駅前近くにある。
一階は映画館、そのビルの二階が施設だ。
宣伝効果もあったのか、数ヶ月もすると少しずつ施設利用者が増え始め、ショップで買い物や、ご注文を頂くことが多くなった。
田舎でのスキーショップしか経験のない私の接客は、東京近郊のお客さんには真新しい感触だったのだろうか・・。
何故かブーツや板の注文がどんどん入るようになり、チーム単位でスキーブーツ作成の予約が次々と入り始めたのだ。
ご利用して頂いたみなさん、本当にありがとうございました。



【16】CROSS STYLE KOCHI

2000年夏、高知のお客様にも対応できるスキープロショップ。
そんな思いで高知に帰りショップ展開をすることに決めた。
スキーやスノーボードのチューンナップを中心とするファクトリー(工房)でお店を探すも、いい物件が見つからず2ヶ月が過ぎた頃、ふと自宅近所の自転車屋さんの締まったシャッターに気づいたのだ。
そして持ち主の方の新店舗に交渉、心やすいオーナーの計らいで急遽ここに出店を決めた。
灯台下暗し・・まさにそれである。

東松山市のショップ展開で得た資金だけでは、新店舗を出すには余裕など無かった。
節約を強いられたショップは、床の張り替えや内装塗装など友人の協力いただき、毎日夜中まで作業をして、なんとか店舗らしき雰囲気にはなった。
(深夜まで内装手伝ってくれた和田君ありがとう)

そんな準備をしているある日のこと。
まだオープンしていない店に、以前からのお客さんであるモーグル関連の方々が訪れてくれた。
そして翌日もまた違うスキーヤーの人達がご来店いただきました。
「高知に店出したんですね、待ってましたよ!」と。

この言葉には、ほんとれしかった・・。

そして、以前から好きだったサーフィン用品も展開しクロススタイル高知がOPEN!
プレデターウェアの代理店展開も拡大したのは2000年の10月のことでした。



【17】CROSS STYLE CUP四国モーグル選手権!

この年の冬から久万スキーランドで行なわれているモーグル大会の名称をクロススタイルカップにして大会は更に盛り上がった。
2010年までのクロススタイルカップ各クラス優勝者を一気に披露いたします。


2000 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権
久万大会参加 131名
男子優勝:岡本真典  女子優勝:河内 香織
________________________________________
2001 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
久万大会参加 104名(初オールデュアル戦開催)     
男子優勝:岡本真典   女子優勝:河内 香織(二連覇)
________________________________________

2002 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
久万大会参加 83人(オールデュアル戦)
男子優勝:高橋 平   女子優勝:河内 香織(三連覇!)

________________________________________

2003 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
久万大会参加77名
一般男子優勝 大野 徹   一般女子優勝 和田 香里 
男子シニア優勝 武内 孝明  男子ビギナー優勝 武内 孝明
________________________________________

2004 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
久万大会参加60名 
一般男子優勝 高橋 平   一般女子優勝 東條 明香 
男子ビギナー優勝 ワタナベ  男子シニア優勝 勝間 淳
________________________________________

2005 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
久万大会参加66名
一般男子優勝 宮内 淳博   一般女子優勝 和田 香里 
男子ビギナー優勝 安宅 祐一  男子シニア優勝 山本 浩司
________________________________________

2006 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
久万大会参加63名
一般男子優勝  安宅 祐一    一般女子優勝 宮崎 理恵
男子ビギナー優勝  棟田    男子シニア優勝 三宅
________________________________________

2007 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
オダ大会参加62名
一般男子優勝  西島 良昌     一般女子優勝 宮崎 理恵
男子エアなし優勝 梅木 志郎    男子シニア優勝  山本 浩司
女子エアなし優勝 宮崎 理恵
________________________________________

2008 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
オダ大会参加62名
一般男子優勝  大江 和幸     一般女子優勝 西島 麻里
男子ビギナー優勝  竹田 好晴       男子シニア優勝  山本 浩司
________________________________________

2009 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
オダ大会参加77名
一般男子優勝 斉藤 栄      一般女子優勝 宮崎 理恵          
男子ビギナー優勝  森光 朝陽     男子シニア優勝  梅木 志郎
女子ビギナー優勝  和田 香里 
________________________________________

2010 CROSS STYLE CUP 四国モーグル選手権 
オダ大会参加74名
一般男子優勝  福本 洋       一般女子優勝 宮崎 理恵          
男子基礎優勝  山本 博雄     男子シニア優勝  三宅 昌文
女子ビギナー優勝  西森 春奈   男子ビギナー 風間 博 



【18】チーム員の珍事件 ‘ミスターG‘

あれは確か97年ごろのことである。
TENのチーム員10人くらいでGWに白馬に行ったころのこと。
この年は暖冬で雪が少なくいつもは雪の多い47も上部はダメで下山コースのルート1のみで滑走していた。
コース脇に一本のコブラインをいつも通りに作りみんなで楽しんで滑っていた時のこと。
リフトを降りてみんなで一斉にコブを滑り終えたが、何故か一人のメンバーの姿がない・・
「あれ?〇〇〇君は?」
確かリフトには乗ってたはずだが、その後コースでは誰も見ていないのである。
コース滑り降りた全員で待つが彼はこない・・
10分しても降りてこない。
待つこと20分、これはおかしいとリフトでコース上部に上がるも彼はいない。
まるでかくれんぼでもしてるかのように見つからない彼。
下に下りると彼を発見した。
なにやらアクシデントがあったらしく、痛みに耐えて滑り出せなかったと。
どこがよ??
みんな「ふーん・・」とあまり彼の不具合のことなど気にもしてなかった。

その後、スキー場から宿まで帰る途中でのこと。
突然彼が「クスリ屋どこかにないの?」と。
クスリ屋?
「何故にクスリ屋?」と白馬駅前横のクスリ屋に止る。
そしたら彼はボクに「痔のクスリ買ってきてや」って(笑)
「あほか、自分で買ってこい!」
と言ったものの、小心者の彼が一人で痔のクスリなど買える訳がない。
で、私が同伴、しかも私がボラギノールを買うはめに・・。
こんなクスリ初めて買ったし。

宿に帰り、我々は部屋でくつろいでいるときにその珍事件は起きた。
彼は買ったクスリを持って便所へ。
そう、痛みを取るべく大の場所に入りクスリを‘患部‘塗る準備をした。
そして・・
グリグリ・・と。
痛みをとるべく自身の菊紋にクスリを塗ってたときのことである。

「ガチャっ」!!

その扉が!
開くはずのない扉が開いたのである!!

本人「え!!」

その女性「キヤァーー!!すいません!!」

その女性の扉の向こうに見たものは??
恐らく男性が〇〇〇〇をイジっている姿だったち違いない。
想像しても恐ろしい光景。
何も知らない我々の部屋に彼は部屋に戻って来たが、なんか様子がヘン。
元気がないのだ。
「あ、開けられた・・便所のドアを」

最初はみなも何を言ってるのか理解できず聞いていたが、どうやらカギを掛け忘れクスリを患部に塗っているところを女性客に扉を開けられたらしいのだ。

大爆笑!

ちゅうか・・・大爆笑!

おいおい、その子はどんな女子ぞ?
この後の夕食時におるぞ。
どの人か教えてくれ?

フリーバイキングの夕食時、彼はうつむき加減で静かに食ってたのは言うまでもありません。
かわいそうな〇〇〇君、次からの大の扉はカギちゃんと掛けろよ。

彼の不運はまだ続く・・

食事も終わり風呂に入りに行ったときのこと。
彼はいつもそうだが、
人と違う時間に入るクセがあり、必ず誰ともいっしょには風呂には入らないのだ。
みんなは風呂から出て着替えているときのこと。
風呂場から聞こえてくる〇〇〇君の声!

「おーい・・イタズラせんと開けてやぁ」
「おーい!開けてぇぇぇ!」

木で作られたログハウスの扉は、湿気で開け閉めが鈍くひっかかる。
開き難い扉を開けれず、誰かイタズラをしてまた閉めたと勘違いしてたのである。

「おーい!あけてやああああああ」
誰もいない風呂場に彼の声が響き渡っていたそうな・・

そのうちガタガタやってると簡単に開いたのは言うまでもありません。
そこは無人。
誰も閉めないよ。

但し、
大の扉はちゃんと閉めろよ〇〇タ君!

その夜、宿のオーナーから彼にピッタリなあだ名が付けられました。

「ミスターGは何処行った?」



【19】前十字靭帯再建組

モーグルは危険でとてもスリリングなスポーツ。
危険だからこそ魅了されチャレンジ精神をそそるのだ。
フラットな斜面でスキーをする感覚とはまったく違い、いかにこのコブという起伏をスムーズかつ早く滑り、そして反り返ったエア台で大きく跳ぶ。
技術、筋力、体力、疲労、ケガの要因にはいろんな原因がある反面、このスポーツには重大な事故も引き起こすこともある。
チーム員のこれまでの怪我で膝に関することをまとめ、特に前十字靭帯断裂から再建手術したメンバーことを書いています。
これを見ても膝の怪我が多いスポーツというのが判るが、技術レベルの低い時期に集中して発生していることも判る。
上達と共にトレーニングの必要性や新たなチャレンジに対して段階的なステップを踏むことの大事さ、そして無理な滑走や無謀なチャレンジは事故の確率を上げることを知っていただきたい。

◆古鎌星児 1998年 前十字靭帯断裂
久万大会エアランディング時、当年同時に半月板も手術。
後3年間、膝に不安があるため装具装着にてモーグルスキーする。
後にビッグエアーに転向、現在は白馬在住。

◆梅原 康司 1999年2月 前十字靭帯断裂
ハチ北トレーニングコース滑走中エアランディングに失敗。
フラットで硬いランディングポジションに落ちたことと疲れが原因と思われる。
3月29日田中整形にて再建手術と半月板の一部切除、翌年2000年3月に装具装着にてコブ復帰するも痛みがとれなかったが徐々に回復、春にはエアーも出来るようになる。2002年大会に復帰後、公認大会に参戦。
2010よりA級選手に昇格。

◆杉田義明 2001年 2月18日 前十字靭帯断裂
クロススタイルカップ、デュアル戦のエアー後傾ランディング時。
翌年モーグル復帰するも思い通りに滑れなかったが、2年後に完全復帰。
父親の49日の法事の日と大会が重なってたが、無理やり法事を延期し大会を優先出場したのが裏目に出て事故に遭う。
翌日、曲がらない足で法事に参列、母に激怒の上無理やり正座させられ、きつい説教をくらい反省したという話しは後で聞いたホントの話。
後に完全復活を遂げ‘10現在も公認大会に参戦中。

◆塩田智子 2001年2月3日 前十字靭帯断裂
瑞穂の草大会の予選、1エアランディング時に転倒。
ちょうど厄年であったらしい。
尼崎の病院にて再建手術後、大会には出ていないがコブは以前よりうまく滑れている。

◆和田 香里 2003年3月1日 前十字靭帯断裂
芸北草大会で狭いゴールエリアで止りきれず転倒にて断裂。
4月16日手術、以後クロススタイルカップにて復帰。

◆桑尾 千鶴   前十字靭帯断裂
バスケットとスキーにて多数の膝事故経験にて、いつ靭帯断裂か定かでない。
2002年10月 兵庫県尼崎市の関西労災病院にて手術。
再建と半月板の縫合。
その後、半月板縫合部分に異常があり切除の再手術にて選手に復帰。
2007年より公認大会に参戦

◆和田 亮二 2010年2月14日 前十字靭帯断裂
クロススタイルカップの2エアランディングにて後傾着地が原因。
前日よりスクール講師などで疲労があったのかもしれない。
リハビリ後、2011より公認大会に復帰。

ケガは怖い。
しかもモーグルは復帰に時間のかかる膝の靭帯断裂事故が多いのだ。
社会人にとって家庭人としてもリスクは大きい。
しかしマイナス要因ばかりではないと私は思う。
オペやリハビリでの痛みと精神的な苦しみから這い上がる経験や努力は、後にプレイヤーを更なる上達に導くことが多い。
そして以前より更に良い滑りが出来た時は感動を覚え、更に強靭さの備わったスキーヤーになってるに違いないと思う。
私はリハビリのやトレーニングでの長く苦しいプロセスの中で得た知識と精神的な成長は、スポーツマンとして良い経験となり、
そのお陰で現在もモーグルスキーヤーとして日々成長している気がします。



【20】チーム員の珍事件 ‘忘れていいもの‘

このチームには通称‘忘れ物王‘を争うものが何人かいます。
高知支部長の塩田もその一人。
過去に沢山の忘れ物を見てきましたが、当店にカギを忘れて自宅に入れないまま夜を過ごしそうになった事件もあった。

二人目は・・・そう私。
この題目では有名人。
塩田には負けるが、過去に親戚の結婚式の受け付け業務を忘れるなど、もう少しでとんでもないご迷惑をかけるところでした。
母上すいませんでした。

いやいや・・そんな忘れ王候補に負けないレベルのチーム員がまだいる。
TEN創設からの古株メンバーの一人。

ある朝のこと。
それは2006クロススタイルカップのエントリー当日、彼はブーツを忘れ大会会場に。
「やまったぁぁぁ!!!」と彼の声。
土佐弁で「シマッタ!」のことであるが、ブーツを家に忘れて来てしまったのだ。
受け付けの私に「どうしよう?」って言われても・・。
と、
偶然にも出場をやむなく辞退していたチーム員が居て貸してくれるとこのと。
持つべきものは友人、なんともラッキーな話しある。
シニア部門のデュアルレースが始まると彼はいつも以上に何故か調子良く、ライバルをバッタバッタと倒し、ついには決勝まで進むことに。
初決勝進出である。
惜しくも準優勝ではあったが、仮にも他人のブーツを借りて表彰台に立った男。
「自分のブーツよりシックリ来た!」と言っていた彼は過去にこんないい成績はない。


彼の忘れ事件そのU。
毎年の冬、いつしか彼の中では北海道ツアーが恒例になっていました。
スキーも滑るのだが、なんと言ってもこの旅の彼の中心イベントは、夜のススキノなのだ。

この年もやっぱりこのツアー計画で秋からワクワクしている。
そして今年も恒例の北海道出発の日が来たのだ。
準備万端、車に乗り高知空港、一路北海道へ。
頭の中は今夜のススキノのことでいっぱいなのだ。
そんなウキウキの彼から突然、昼すぎ私に一本の電話が私に入った。

「北海道でレンタルスキーはどんなん借りたらええがぁ?」
と。

パウダーでもやるのかと聞いたらそうでもなさそう。
「実は・・スキーを忘れたぁぁ」。

そう、彼は北海道にスキーを持たずにスキーツアーに行ったのである。
高知空港で気が付いてたが時間が間に合わずそのまま飛行機に乗ったと。

ほんとにそうかなぁ・・(^^)

という電話の向こうでは早くもススキノガイドを片手にオマチに繰り出している。
向かうは行き着けのキャバクラ!
ドアを開けると「毎度!」と言われるほどの行きつけらしい。
結局、翌日はレンタルスキーでコブを滑ってもイマイチ面白くなかったようだ。

まっ、
スキー場でのことは、ほんとにどーでもいいのだ。
北海道の一人旅。
スキーより夜のススキノが楽しいに決まってる。
彼はこの旅でスキー以外の夜だけで10万使ったとさ。

さすがは師匠!!



【21】西日本で公認大会開催!

時はさかのぼり、
2002年、兵庫県ハチ北スキー場スーパーモーグルコースでSAJモーグル公認大会を開催しようと地元兵庫県とスキー場が動き始めた。
とりあえずこの年は公式な大会参加ではなかったが、模擬的な試合も行なうということで即座に参加意思を決めた。
普段からこのスーパーモーグルコースをエアを入れて通して滑れたことがない。
とにかく急斜面の長いコースなのだ。

仮公式戦ではあるがこのような正式な大会参加は人生初めてである。
本番緊張のあまりスタートから5ターンでつまずき転倒、散々なデビューだったことを思い出す。
翌年から高知県スキー連盟に登録、フリーバンプスTEN高知の選手として登録、そして愛媛県のメンバーはフリーバンプスTEN愛媛として登録となった。
和田香里、高橋平、塩田誠人、山崎正、そして私梅原はこの年から本格的にSAJ公認大会にモーグル競技として出場し始めた。
それから連続して毎年参加はするものの、四国がホームゲレンデの我々にとっては、この長くて急斜面なコースをどうしても攻略できず、上位進出どころか完走するのがやっとです。

愛媛からは宮内淳博、和田亮二、香川の杉田義明や野口英司、高知はジュニアの森光亮星に期待がかかった。
その後も長野県さのさか大会や富山極楽坂大会など各地で行なわれるB級公認大会に出場。
ターンの正確性、スピード、そしてエアの高さ。
全てに劣る四国勢にはB級大会の決勝進出は夢のまた夢だったのである。
どこをどうすれば・・
公認大会の難しさを毎年感じて惨敗で帰ってくる年が続いた。

そんな2008年‘事件‘は起きた!
手術をして10年も経ってる膝が、この年は何故か調子が悪く、深いコブを吸収すると激痛が出ることが時々あった。
ヘルニアの腰痛も相変わらず良くならず常時痛みを発し、週2度もブロック注射をして参戦したこともあった。

そして3月、
恒例の兵庫県スーパーモーグルコースで行なわれるハチ北B級公認大会2連戦の時がきた。
一人旅で前日入りした私だったが、公式トレーニングで膝の痛みがひどく、まともに滑れずコースの状況だけ把握して落胆した気持ちで下山した。
こんな状態で翌日の大会に出場できるのか不安なまま車中泊、しかも夜中寒さが増し、何度も目が覚めてその度に腰痛にも苦しんだ。

試合当日。
朝食事に痛み止めのクスリを通常の2倍の量飲み試合当日の公式トレーニングに向かった。
破れかぶれな気持ちでボルタレンを呑んだのである。

効いた!不思議!

クスリが効いているのか。
公式トレーニングが始まっても前日のような痛みがまったく感じないのである。
しかもスキーの調子がとても良く、気がつけばコースを滑り終えてゴールにいた。
「これは本番イケるぞ!」
あれほど難しく感じていたこのコースが少し優しく思え気持ちまで余裕が出て来たのだ。

今でも覚えている。

49番スタート、少し掘れたコブで荒れたバーン。
選択はセンターのホレホレライン。
予選スタート!
1エアの難関もギリギリごまかしてミドルセクションへ。
コブの吸収にも痛みが無くスムーズに滑れる喜びが自信となりスピード上げる。
そのまま何故か気持ちよくゴールし予選の本番を滑り終えた。

そして‘奇跡‘が起きた!

予選発表のアナウンスに自分の名前が呼ばれた。
予選6位通過!

夢のまた夢と思っていた公認大会予選通過の瞬間は時間が止ったように耳を疑った。
もう一本決勝ランのスタートである。
そして、その決勝もまるで呪文のかかっているように同じ滑りで5位という成績が出たのだ。
生涯忘れることのない一日。
ボルタレンというクスリに感謝、そして今日という日にありがとう!

まるで流れが出来ているような夢物語。
それが翌日も続いていたのだ。
またもや47番スタートというスタートで予選4位通過、決勝5位という、なんとも信じがたい結果が出てしまった。

完全にキツネにつままれた心境。
ほんと不思議な2日間を体験した。
帰りの車を運転してて本当にこれが現実なのかと、なんども正直自分を疑った。
いつもの自分、決して、まったくスキーは上手くもなってない。
きっとモーグルの神様がいて、痛み苦しむオヤジモーグラーにご褒美をくれたのだろうと。
真剣にそう思った。
祝賀会を開いてくれた山本先生他チーム員のみんな、ありがとうございました。



【22】更なる夢へ〜

自叙伝のように自分のことばかりになっていますが、お許しを。
翌年の2009年ハチ北公認大会。
このコースを見ると前年度の好印象が蘇る。
今年から前日はA級大会となりB級選手も推薦状を各県連に書いて頂くと出場が可能。
そのA級大会でなんと予選12位で通過!決勝8位となる。

翌日のB級で予選3位通過!決勝も3位で初表彰台GET!!
もう、自分では想像以上の判断のつかない成績に喜んでいいのか、なにがなんだか判らない状態だ。
スキーはそんなに上達はしてない。
とにかく運が良かったに違いないと・・

2010年この年はハチ北はキャンセルとなり4月の新潟県松之山温泉の試合で決勝10位を最後に翌年2011年はA級選手に昇格参戦することになりました。
SAJ MOランキング71位、47歳の年である。
人生何が起きるか判りません。
もちろん大した成績でもないが、私自身にとってはありえないような事実。
ここまでこれたのもチーム員の皆さんのお陰です、みんなありがとう!
B級の大会に出らないのは寂しいなぁ・・


フリーバンプスTENをはじめ四国モーグルは不滅です。
年齢も少しばかりか全体的に上がってはいますが、まだまだみんな元気ですしレベルも同じく年々上がっています。
2010現在でTEN登録者数78名!
全てのみんなが四国のモーグルシーンを支えているのです。

ソルファーオダのモーグルコースも2008年から常設になりモーグルスキーヤー以外に基礎スキーヤーから一般スキーヤー、スノーボーダーまで利用者が増えています。
コブスクールも始めました。
そして、アクロス重信も今年はコブコースが常設となっていました。
一般スキーヤーや基礎スキーヤーもコブに興味を持つ人が増えてきている兆しがあり、中でもだまだ元気なのが中高年スキーヤーの滑走が目立ちます。
40台、50台は普通、60歳台スキーヤーにも今年はコブレッスンをしています。
みんなまだまだ向上心があり上手くなりたいんです。
四国のモーグル事情も以前からは考えられないような進化も遂げているように思います。

さて、
これからの十年はどうなってゆくのでしょう。
またしばらくの間ペンを休めます。
次、書き出す頃の四国モーグルの行方も楽しみの一つです。

ではまた・・。

2011.1